最新記事

捨てる缶あれば、拾う人あり。

今年は、お正月から、子供と道端に捨てられた空き缶を拾って集めた。小野上温泉に向かう道端に落ちていた缶を拾って行った。特に林の中を走る道路の両脇で捨てられた缶を多く拾った。人が住んでいないと道路愛護で近所の人たちが、拾うことができないので、うち捨てられたままになっているのだろう。

環境美化→缶響美化→感興美家、こんな言葉が浮かんだ。以前、フェリーで沖縄に行った時に、船の上から飲み終わった缶を海に向かって投げ捨てる人を見たことがあったが、そういう人間は、狭いちっぽけな自己という世界で生きているだけなのだろう。車の外に平気でゴミを投げ捨てうる人間は、小さな自分というエゴの枠の中で生きているので、その肉体以外はすべて外の世界になって、ゴミを投げ捨てても自分とは関係ないと思っているのだろう。

もし、自分というのは、エネルギーの流れであって、この自然、地球、宇宙までも自分の延長線上にあると感じることができれば、外の世界がなくなるので、ゴミを自分のうちに捨てることはできないので、こうした愚かな行為もなくなるのだろう。平気でゴミを車の窓から投げ捨てる人は、その小さな自分という枠を壊して、もっと外の世界へ開放し、自然と一体になった生き方を探した方が、幸せな気分になることができるだろう。

都会の生活や仕事や社会に対する鬱憤を窓の外に缶と共に捨てるのではなく、田舎に来たら、その豊かな自然や人々の暮らしを敬い、逆に缶を拾ったりして、缶取りライフを楽しんで欲しいものだ。

般若心経10万回を目指す。

般若心経10万回を目指して、唱えようか思い立った。それには、普段、寝ながら唱えているものを数値化しなければと思い、青いカウンターを買ってみた。半分寝た状態なので、カウンターを押しながら唱えるというのはちょっと無理でも、起き上がった時にだいたいの数をカウントするしかない。

声を出さずに心の中で唱えた分も数に入れれば、今までとは違って飛躍的に数が伸びる。そうすれば、10万回も夢ではない。ただ、何かを集中して作業している時には、唱えうることはできない。同じ動作でも思考の伴わない、単調な動きの時は、唱えることででいそうだ。夕べは、寝ながら唱えた数は、32回に達していた。一日中唱え続けたら、いったい何回ぐらいになるのかというの興味深い。

この間、喫茶店で会った人が、数はそれほど重要ではなく、バックグランドでいつも般若心経が響いているようになることが、理想だ。」と言っていたが、確かに一日中意識して唱えていれば、絶えず心のどこかで、般若心経が響くようになるのではないかと思う。その人は、数は重要ではないと言ったが、「修行の見える化」には、「般若心経10万回」のように数値目標をつくるのも一つの手立てではないかと思う。こうすることによって、修行を客観化して、努力しやすすることができる。そして、具体的な数値目標がある方が分かりやすく、そこに向かって前進しやすいのだから。

般若心経、13000回達成。

この間、新たに般若心経3000回読誦を達成した。夏が暑すぎて、なかなか進まなかったが、ここに来て夏の疲れも取れて、今年中に達成することができた。今、「男はつらいよ」シリーズを見ているが、たまたまその日は、「寅地蔵」がでてくる作品だった。四角い顔の寅のようなお地蔵さんお坊さんとして体現し、代官の横暴に苦しむ村人を救うという設定だ。その中で、寅のお坊さんが、呪文を唱えるとさくらと博の着物が上等な物に変わり、米俵が山のように現れ、庭がきれいな花に満たされて、小判が舞い落ちてきた。まあ、サイババのように奇跡を起こしたということだ。

元々、般若心経を読み始めたのは、この世の苦しみを克服するためだったので、最初の一文「観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」が、一番大切なものと思って来たが、この回の寅さんを見ていたら、妙に「色即是空、空即是色」の文が強調されていた。お経を読む時も、あまりこの辺は意識していなかったが、やはりここが肝心だよと仏が合図しているのかなとちょっと思った。精神と物資だけでは、なかなか分離していて理解することが難しいが、そこに「気」という橋がかかることで、この二つを結びつけることができると思って来た。いきなり「悟り」では、なんのことやらさっぱりわからない。悟りと現実の間に開きがありすぎて、一般的にまったく理解されず、ますます現実は間違った方向に進んでしまっている。そのためには、まずは、「エネルギーの流れ」としての私の存在を理解して体感することが、大切と思って来た。

最初に書いた、寅地蔵の話は、寅さんの夢の中の話だったのだが、確かにサイババのように目の前に存在しない物を突然、物質化したり、また消して見せたら、物質やこの世にたいする考え方が、一瞬で変わるのかもしれない。しかし、誰もがそんなことはできる訳もないので、今まで道理地道に「エネルギーとしての私」という存在を伝えていきたいと思うが、「色即是空、空即是色」という言葉にもう少し気を置いて唱えてみようかとも思う。

 

心に城を築き、まずは自分の安心できる場所を作る

誰しも、パニック障害になると恐怖に襲われてしまう。それは、一度快方に向かった人でも、何かの切っ掛けで、また、そうなってしまうことがある。そんな時は、自分が安心できる場所、「心の城」を作る事がお勧めだ。なんでもいいから、好きな物で自分の周りを固めていくと、しだいにその中で守られて安心して寛ぐことができるようになってくる。

ある患者さんは、気功指圧を受けに通ってくれて、こちらの勧めを素直に聞いて、「寝ながらできる元気気功」や般若心経を唱えていただいて、半年ぐらいで大分よくなった。そして、その時に音に関するパソコンを自分で組み上げてから、飛躍的によくなった。そのことをご自分では「音の城」と表現していた。その後もスピーカやアンプなどの壊れた物をインターネットで買って修理したり、昔聞いたjPOPの曲などをハイレゾ音源に変換して聞いたりしながら、活き活きと楽しく暮らせるようになっていった。

人間というのは、何か問題があるとどうしてもそのことに囚われて、そのことばかり考えるようになってしまう。それが、鬱やパニックの原因になる。その意識をもっと楽しいことに向けることができれば、再び生活は輝きを取り戻し、毎日生き生きとワクワクしながら生活することができるようになってくるのだ。

上の写真はよく行くお米屋さんの店のものだ。最近、倉庫を改造して店舗をご自分でリフォームしたのだそうだ。店の中は、奥さんの大好きなかわいい小物たちがいっぱいで、楽しいファンタジーの世界が作り出されている。特にムーミンが好きだそうで、たくさんの小物をお持ちで、ムーミンたちもしっかり店の中に生きずいていた。(ちょっとわかりにくいが、上の写真の白い置物がムーミンです。)この奥さんにとっては、このお店が城なんだと思った。ここにいれば、たとえ生活の中でいやなことがあったとしても、忘れて楽しく過ごすことができるのだろう。

だから、心が壊れそうになった時は、こうした「心の城」を作り自分を守る事が大切なのだと思う。

全力投入というよりも全開流入

昨日、治療をしていて患者さんの顔が上気し、「身体中がだいぶ温かくなってきました。背中と顔は熱いくらいです。」と言われた。「それはよかった。気を全力投入かな、しているからね。」と言って、なんかこの言葉はふさわしくないなと思った。なぜなら、気を入れるときには、自分という意識を手放して治療しているからだ。気と力もむしろ対極にある言葉だ。

その後もどんな言葉は、ふさわしかったのかなとなんとなく考えていたら、全開注入という言葉が思い浮かんだ。そして、この文章を書きながら、「注入と言う言葉も意図的だな」と思い、「流入」という言葉に変えた。これなら、「私」という想いを排除できる。この治療は、天地自然のエネルギーがこの肉体を通して自然に流れ、患者さんの身体に入ってゆき、内側から活性化して、熱を発する。そんなイメージの治療だ。

そのせいか最近は、患者さんを指圧していると手の平から入った気が反射して熱を感じることが多くなった。手の平の周りの患者さんの細胞がピンクの光を放ってシュワシュワと動き出す感じだ。エネルギーの流れとしての自分をますますよく感じるようになってきた。肉体に囚われることから、この世のすべてに苦しみが生まれる。こうした感覚をすべての人が理解できるようになれば、世の中、もっと楽に未来に希望を持って生きることができるような気がする。

世も末

9月は、梅雨よりも雨が続き、十月になっても気持ちのいい秋晴れの日がやってこない。この天候不順で体調を崩してしまう人も多いのではないだろうか。自分自身も数日前までの湿気の高さに汗ばかり出て閉口した。やっと気温は下がってきたが、やはりすっきりとした青空は戻ってこない。昨日スパーの屋上でようやく撮った青空がこの写真だ。

この間は、ニュースで僧侶が、妻と子供を殺して首を切ったという事件の報道を見た。このニュースを聞いていよいよ「世も末」だなと思った。本来、出家は家族を捨てて家をでて、悟りを得るために修行に専念した生き方をするという意味なのだろうが。この僧侶は、妻帯し子供まで作って、しかも殺生を犯し、さらにむごいことに首まで切り落としてしまった。お釈迦様がこれを見たら、なんと言うだろうか。まさに末法の世が来たと言うのだろうか。

ネットで「末法」について調べると、不作と疾病がはびこり、税金も重くなる。しかも道理に合わない税のかけ方をするようになると書いてあった。来年は、消費税もまた上がるし、ガソリンでは二重課税が平然と行われ、まったく道理にかなっていないと腹が立つがどうにもならない。さらに男子の寿命は短くなり、女子は逆に100歳まで長生きするようになると書いてある。そして、富めるものも貧しい者も洪水に流された魚の餌となるとも書いてある。東日本大震災の津波の被害や今年の夏の西日本豪雨などの被害を見れば、まったくその通りになっていると思える。

このようになんだか希望の持てない時代になってしまったが、ふとこんな言葉が降りてきた。「時代の先端ではなく、存在の中心にどっぷりと居座って生きる。」こんな時代だからこそ、外の目まぐるしい変化に目を向けるのではなく、自分の内側に目をやって、瞑想し、自分の中心の意識の焦点を当て、すべての中心と一つになるような時間を持つことが大切になってくるのだと思う。そうすれば、時代の激流に翻弄されるともなく、安心して生活することができるのだと思う。

 

 

終わらない命への終活

「死ぬときぐらい好きにさせてよ」という樹木希林さんの広告が、よく行く喫茶店のトイレの壁に貼ってある。「確かこの人、がんだったよな。」と思いつつ、いつもその広告を見ていたのだが、つい先日ついに亡くなられたというニュースを見た。

その広告にはこんな言葉が書いてあった。

以下引用

「人は必ず死ぬというのに。
 長生きを叶える技術ばかりが進歩して
 なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
 死を疎むことなく、死を焦ることもなく。
 ひとつひとつの欲を手放して、
 身じまいをしていきたいと思うのです。
 人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。
 それが、私の最後の欲なのです。」

引用終わり

「長生きを叶える技術ばかりが進歩して、なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。」という言葉は、長生きさせることばかりを考える医療のために、かえって、医療費ばかりが増大して社会そのものが死にかけている状況を皮肉っていて面白い。プラスとマイナスがあり、山があり谷があるのが、自然の風景であり美しいのに山々山に自然を作り変えようとするのは、自然の摂理に反しているし、文明を持続してゆくことは不可能だろう。そろそろ、その当たり前の真理に気が付いてもいいころだ。

「死ぬときぐらい好きにさせてよ」という言葉をきっかけにどこかの報道番組で、終活について取材していた。そこに遺影を亡くなる前に撮影する人たちの姿が放送されていた。でもこれってなんか違うだろうと思った。遺影がどんな物でもすでに亡くなって、この世に居ない自分に関係ないということがわからないのだろうか。これは、死後がイメージできないということの表れなのかもしれない。

今朝も、般若心経を唱えていたら、身体が熱くなって5回ぐらいでやめざるを得なかった。般若心経を唱えると身体の中心から気が湧きあがって来て、身体が熱くなり元気が出てくる。お経の内容もさることながら、自分がエネルギー体であることを実感させられる瞬間だ。それは、死後も継続して存在する命への確信に変わっていく。だから、自分の遺影を生前に撮影するよりも、毎日、般若心経を唱えることを、「終わらない命への終活」として、お勧めしたい。

一切が空であるということ

先日、親戚の叔母さんのお葬式があった。その前の日に、湯かんをして足に脚絆を履かせた時に、その冷たさに触れて、もう生きてはいないことを実感した。そして、昨日は、葬儀の後に焼かれた骨を骨壷に収めた。これは、ある意味すごいことだと思う。なぜなら、ついこないだまで生きて動いていた人を焼いて灰として骨壷に収めてしまうのだから。少しでも肉体に対する執着があったら、なかなか心情的には受け入れることができないのではないだろうか。これを当たり前のこととして受け入れている日本人は、たいしたものだと思う。

火葬が普及したのには、仏教の影響があるようだが、お葬式で聞くお経もそれなりに理解されているということだろうか。般若心経も身近な存在だし、これを写経したり解説本を読んだり声にだして毎日唱えている人もけっこういるのだろう。その冒頭に「観自在菩薩 行人深般若派羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。」とある。肉体を含めこの世の一切が「空」と悟った時にこの世の一切の苦悩から開放された。たいていの宗派は、お葬式の時は般若心経を唱えるのかだら、子供の頃から無意識にでもこのお経を聞いていれば、自然と肉体への執着から離れて「死」を受け入れることができるようになるのだろう。そういう意味では、一般の人にとっては、お葬式が唯一の仏教の勉強の場でもあるのかもしれない。

日本人のように一切が空と割り切ることができれば、執着や恐れを火葬にして葬り収めることができる。子どもの頃は、お葬式のたびにこの間まで元気だった人が、火葬されて目の前に骨としてあることが不思議だった。人間ってなんなんだろうか。死ぬとどこへ行ってしまうのだろうかと思ったものだが、般若心経を唱えるようになってからは、その意味がよくわかるようになった。

超夏ばて

先週は涼しくなって、やっと過ごしやすい日々が来たと思ったら、今度は台風が立て続けに来て、また、太平洋高気圧を押し上げたせいか、蒸し暑さの戦いが再開した。夕べは、夕立の後、涼しくなってよく眠れたが、一昨日までは蒸し暑く寝苦しかった。

気温特に湿度が高いと汗が噴出して、夜中に何度も着ている物を着替えなくてはならなくなる。一晩で洗濯物の山ができてしまう。幸い昼間猛暑なので、すぐに乾いていいといえばいいのだが。それにしても、今年の夏はいつまでも暑すぎる。いつもの夏なら、暑い暑いといいつつもて、それなりに体調もよくなるのだが、今年は、あまりの暑さに疲れきってしまった。

今日は、街へ出かける気力もなかったので、午前中から子供と小野上温泉に行って、疲れを癒してきた。同じように皆疲れきっていたのだろう、夏だというのにたくさんのお客さんで温泉は賑わっていた。たいていの場合、夏ばての原因は、冷たいものの取り過ぎによる胃腸の疲れだ。土曜日に来た患者さんも指圧を始めると胃腸が動きお腹が鳴り出して驚いていた。気が入ると疲れて硬くなった胃腸が動きだして、お腹が軽くなりすっきりして、また、元気がでてくのだ。超夏ばてと感じた方は、ぜひ気功指圧を受けに来てください。

夏風邪にご用心

しばらく涼しい気温が続いたが、台風の到来と共に再び暑くなったしまった。これほど気温の変化が大きいと身体の体温調節が上手く行かず、夏風邪とひいてしまう人も多いのではないだろうか。事実、うちの母親も風邪をひてしまって、汗が出て気持ちが悪いと言っていた。

周りの気温が高い時に自分自身の体温が上がってしまうのは、特に辛いものだ。寒い時期なら、布団を厚くかけて暖めればいいのだが、暑い夏はそうもいかない。汗をかいたら身体の汗をタオルでふき取って着ている物を頻繁に着替える他は手が無い。

こういした風邪の場合にも、寝ている時に汗をかいてそれが朝方冷えて体に冷えが入ってしまい起こることも多いと思う。自分の場合は、冷えが入ると頭痛がしてくるので、それを針を打って治療すことで早めに自然治癒力を発動して治している。頭と腹部に針を打つと急に身体から汗が噴出してきて、下からくだるか上から吐くかで排毒が終わると頭痛も消えて楽になってくる。針を打つことで自然治癒モードにスイッチが入るととたんに発汗が始まり、身体から冷えなどの毒素が出終わるまでは、実に辛いが、出終わってしまうと実にすっきりして身体が気持ちよくなる。このように薬を使わずに自然に治すことで、免疫力や自然治癒力を高めておくことが大切なのだと思う。