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97歳老婆の涙

最近は、人生100年時代とか言われるようになった。そのために社会保障費が増大するので、消費税を上げるのは当然だし、年金支給年齢を70歳に引き伸ばすべきだとも言われている。でも、それって本当に幸せなんだろうか。寿命が延びたために死ぬまで働かなくてならなくなってしまい、かえって不幸になっていないだろうか。

毎週、マッサージに通っている老人施設で、97歳になるお婆さんがいる。すでに認知症が進んでいるので、毎回同じ話を聞かされる。そんなおばちゃんが、この間行った時に身体を振るわせて泣いていた。なぜかというと施設の人が自分の物をみんな取ってしまい、物がなくなってしまうというのだ。しかも、年中働いている人が入れ替わるので、誰も分からないという。タンスはなくなってしまうし、服もなくなってしまうし、その時は、ひざ掛けもなくなってしまったと言って泣いていた。

確かにその施設は、職員の入れ代わりが激しいとは思ったが、タンスの件などは、地震の時に倒れては危険なので、家族と話しあって片付けたのだと思う。そのおばあちゃんの口癖は、「もういつでもあの世に行きたいんだけれど、なかなかお迎えに来てくれないんだよ。」ということだ。同じような言葉、102歳で亡くなった自分の祖母からも聞いたことがある。彼女は、バスに乗りたいとあせるのだが、いつもバスに置いてかれる夢を見るといっていた。

こうしたことを考えると安易に「人生100時代」などと言う事の愚かしさがよく分かる。人生、ただ長く生きればいいという時代は終わったのだ。死の意味を肯定的に捉え生死を一つのものとして生きることができるようになれば、無闇に税金ばかり増やすことなく、充実した生を送ることができるようになるだろう。平均寿命は、下がるほうが個人も社会も幸せになれるということをそろそろ気づくべき時ではないだろうか。

仏陀が街にやって来た

昨日は、友人のシルバンと渋川の総合公園の上にできた台湾のお寺に行ってきた。上の写真は、たぶん弥勒菩薩の像だと思うのだが、日本人がイメージする姿とはあまりにも似ても似つかない姿に最初は唖然とした。しかし、この姿こそ中国人が仏教に対して持っているイメージなのかと今回このお寺を訪ねて改めて思った。

このお寺が建っている場所は、かつては栗林だった。そして、いつかここにスピリチュアルセンターを建てたいものだと思っていた。しかし、残念ながら自分の力ではなかったとは言え、今ここに立派なお寺が建ってる。しかも、ここからの眺めは最高だった。遠くから来た信者の人たちも、列を成してこの素晴らしい風景に見入っていた。これぞまさに仏のなすわざと言えるだろう。「仏陀が街にやってきた」のだ。毎日、水沢に向かって薬師堂の治療室のベッドに座って般若心経を唱えたかいがあったというものだ。

お寺の中に入ると案内の人が付いてくれていろいろと説明してくれた。日本に住む台湾から来た信者さんのようだった。その人になぜ渋川を選んだのか聞いてみると「ここはへそだからです。」と答えた。そう渋川は、日本のへそだし、日本の中心だし、エネルギー的にもすぐれているということなのだろう。スペシャルなスピルチュアルスポットということだ。よく渋川に住んでいる人がここにはなんにもないということを言うが、何にも無いではなく何も無いということに満たされている、目には見えないエネルギーが噴出しているということが外からみるとよくわかるということだろう。最後にガイドさんが、千手観音像の所へ案内してくれた。なんでも敦煌の壁画にあったものを立体化したものなのだという。

前回書いた微笑みをこの仏像からも感じることができる。「観自在菩薩 行人深般若派羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」と般若心経を唱えていれば、自然と観音様と感応道交し、こうして目に見える形でこの世に現れてくれる。かつて、太極拳を習いに中国に行った時に、師匠や仲間と共に少林寺を訪ね達磨大師が座禅をした洞窟で座った時からずっとこの縁は続いていたのだろう。

 

拈華微笑(ねんげみしょう)

昨日、毎週往診に行っている患者さんが突然亡くなられたという話を聞いた。その日も施術するつもりでいったのだが、、あまりの急な話しだったので驚いた。その患者さんは、施術を受ける時は、いつも目を閉じていて軽く微笑んでいるような顔をしていた。そして、時々、ブファファファと吹き出すように笑うことがあった。

ちょうど前々回の施術の時、いつもそこでの仕事をサポートしてくれる人が、ある人に瞑想を勧められているという話をしていた。そこで、両手の中指を眉間に沿って真っ直ぐに上げ、額の上に突き当たったら左右に分けて降ろしてきて、顔の横を通して目じりを下げて顎の下で合掌してハートの前で止めると脳の中心が開き、リラックスして瞑想状態に入ることができますよと説明した。そして、この患者さんの顔をさして、「ほら、こんな表情です。眉間のアジナチャクラの所が開いて仏様のような顔をしているでしょう。」と言ったばかりだった。

確かその時にえんげ微笑とか言って説明したような気がしたが、よく調べたら拈華微笑だった。 自分のあやふやなイメージとしては、樹の花の下で釈迦がその花を手にして微笑まれた所、迦葉尊者だけが微笑み返してその意味を理解したと思っていた。ところが、よく調べてみると、「インドの霊鷲山(グリドラクータ)上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、会座の衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉尊者だけがその意味を理解して微笑した。」(ウィキペディアより引用)ということだった。

この言葉は、「禅宗において禅の法脈を釈尊摩訶迦葉に微妙の法門として付嘱したとする伝説のこと。禅宗の起源を説く寓話であり、公案の一つでもある[1]代以降の禅宗において、不立文字教外別伝の立宗の基盤を示すものとして重用された。」(ウィキペディアより引用)とある。

まあ、難しいことはよくわからないのだが、要するに、悟りの境地は言葉では伝えることはできず、以心伝心によって、直接相手に悟りを伝えることしかできないということなのだろうか。

話を元に戻せば、その患者さんの微笑みが、彼女のこの世での修行の完成を意味していたのはないかと思う。その人には、知的な障害があり、表面的には何も分かっていなかったのかもしれないが、深い意識の中では、すべてを了解して、この世の修行を終えて無事彼岸へと旅立つ準備が整っていたのかもしれない。誰しも本当に心の底から微笑むことができるようになった時、涅槃の境地へと至ることができるのだろう。

へそが揺れて大地震の予兆か

渋川出身の役者渋川清彦が主演の映画「榎田貿易堂」をシネマテーク高崎という映画館で観た帰り、ちょうど渋川にさしかかった時にけたたましく地震警報が鳴った。車を運転していたので、まったく揺れを感じることもなかったので、たいしたことないのだろうと思っていたら、震度五弱だからけっこう揺れたらしい。元々、この辺は、あまり地震のあるとことではないので、渋川が震源と聞いて驚いた。

そういえば、映画の中で榎田貿易堂の看板から突然、夏の字が落ちて「何かすげえこと起こる予兆」とか主人公が言うシーンがあったが、この言葉は何かを暗示しているのかもしれない。特にこの夏は、注意する必要がありそうだ。なぜなら、渋川は、日本のへそといわれているので、中心が動くということは、全体が揺れるスイッチが入ったことのサインかもと思ったからだ。

地元で撮った映画を観るといつも行き着けの場所がでてたりして、けっこう楽しめる。このシーンの場所は、どこかと探すのも面白い。榛名山の真っ直ぐな道もでてたし、最後の方で毎週言っている眺めのいいそば畑がでて来たので、「そうそうここの眺めはいいんだよな、さすが地元出身だけあってわかっているじゃないか」と思い喜んだ。この場所は、去年のお正月に初日の出を見に行ったら、けっこうたくさんの人がきていたので、いつの間にか地元では有名になっていたのかもしれない。

梅雨が身体に入る

昨日来た患者さん。ここの所、どうも調子が悪い。昨日は、久しぶりにめまいがすると言って治療に来た。その前は、胃の調子が悪いと言って来たし、梅雨になってからどうも調子が悪いようだ。胃の調子が悪い時は、背中を押すち消化不良のすえた気の感覚が伝わって来た。さすがに今回はそれはなかったが、下腹部の冷えがあり、左足の踵の内側の腎臓系のつぼを痛がったが、何度も何度の肘を使って施術した。

すると今日は、左の耳の穴の中が温かいと言って不思議がった。そして、「きっと梅雨が身体に入っちゃったんですね。」と言って笑った。治療が終わって帰るころには、すっかりめまいも治まって、しっかりとした足取りで元気になって車へと向かって行った。

梅雨だと言うのに昨日、今日は意外と湿度が低くさわやかな風が吹いている。最近は、気象のパターンが変わってしまって、予測しずらくなって、ついつい身体の調子が悪くなってしまうことが多い。こういう時は、外の気象だけでなく、身体の中を流れる気も乱れて体調を崩しやすいので、寝るときには、冷えが身体に入らないように十分注意することが大切だ。

心臓の中心から蜂蜜のように甘いエネルギーが湧き上がる

3日ぐらい前になるだろうか。ちょうど怒りのエネルギーが消えかかった頃に、心臓の中心から甘露(甘い蜂蜜のようなエネルギー)が湧き上がって、非常に気持ちよくなった。今でも心臓に意識を置けば感じることができるのだが、その時のが強烈に喜びを感じた。

正しく怒りを克服した神仏からのご褒美だったのだろうか。怒りを爆発させずに収めれば、心も身体も喜びに包まれるのだろう。心臓の中が怒りのエネルギーで満たされている時は、顔もこわばり動作もぎこちなくなって、苦しく少し悲しい感じだったが、うまくそれを乗り切れば、心は喜びに満たされる。

悟りというのは、ただ無になることのように捉えられているが、実際は、そんな味気ないものではなく、活き活きとしてエネルギーに満ち溢れ、しかも甘い蜂蜜のような愛のエネルギーのわきあがるものなのではないだろうか。インドの聖者に会うとプラサードと言って甘いお菓子をもらうことがあるが、それはプラサードによって、悟りの甘いとろける様な喜びを教えようとして配っているのではないかと思う。これこそ何物にも変えがたい喜びと言えるだろう。

怒りは、エネルギーである

この間の日曜日、家族で「OVER DRIVE」を観にいって来た。ちょうどカンヌ映画祭で賞を取ったという「万引き家族」をやっていたが、映画を観たら子供が万引きしてしまったでは、洒落にならないので止めておいた。「OVER DRIVE」は、メカニックの兄とドライバーの弟のラリーでの葛藤を描いた映画だが、映像的にきれいで迫力もあり、なかなかいい映画だった。

弟役の体つきは空手でもやっていたのかなと思って観ていたが、後で聞いたら真剣佑と言って千葉真一の息子と知って納得した。ちょうど先週、ちょっとした問題があって、怒りが胸の辺りに溜まっていたのだが、映画を観た後にはかなりすっきりとして解消していた。映画の登場人物が本気で怒りを爆発し合うことで、観ている観客の怒りも浄化されて消えていくのだろう。映画館は、心の浄化装置なのだ。

今回、自分の怒りを見つめていて、怒りというのは、エネルギーだということをつくづく感じた。ちょうど心臓の辺りに怒りのエネルギーが充満してなかなか収まりが付かなかった。考えてみれば、この怒りのエネルギーこそがすべての災いの元なのかもしれない。それは、破壊のエネルギーで、外に向かえば、人を殺したり戦争を引き起こし、うちに向かえば、心と身体を痛め、うつなどの精神的な病気や心臓病などの肉体的な病気も引き起こす。今回、そう気づいたので、前腕の内側の心臓に関係したつぼに針を打って、そちらに怒りのエネルギーを誘導してみた。すでにある程度収まった後だったが、それなりに効いたような気がする。怒りのエネルギーを生命エネルギーである気として捉えれば、針での治療の対象になるのかもしれない。

いずれにしても、いかに怒りのエネルギーを解消するかということが、個人にとって社会にとっても大切なことと言えるだろう。

治療の価値とは

先日、久しぶりに治療に来た患者さん。なんでも業を払うと言って体をひっかく治療に行って来たと言った。はじめは一回3万円だったのだが、次にわざわざ友達を誘って遠くの街まで行ったら、突然10万円と言われたそうだ。しかたないので二人で20万円払って帰って来たという。

その患者さんが、達磨大師の絵を見て、やはりそのような物があったと言ったので、祭壇に飾ってある石の破片を取って「これは達磨大師が座禅をした洞窟の石だよ。以前、中国の少林寺に行った時に洞窟まで行って、拾って来たんだよ。」と言って渡した。そして、「まあ、そうして高い治療代を払うのもいいけど、本当の気力ってのは、自分の内側から沸きあがって来るんだから、般若心経を毎日100回唱えた方が、気力も運気も上がるんじゃないの。」と付け加えた。

人は、いつも遠くに素晴らしい物があるとあこがれる。しかし、本当に素晴らしいものは、今ここにいる自分自身の中にあるものだ。わざわざ高い電車賃を払って遠くに行かなくとも、繰り返し繰り返し般若心経を唱え続けるだけでも、身体の中心から気が湧きあがり、元気がいっぱいに満たされてくるものだ。薬師堂の治療代は、3千円でもう30年以上同じ値段で続けている。本当は、6千円ぐらいもらってもいいのではと思うこともあるが、半分は皆さんのために奉仕しているつもりでこの値段に設定している。また、3という数字にも意味があると思うし、患者さんも払いやすいのではないかと思っている。治療の価値は、その値段にあるのではなく、相手のことを気遣う優しさの中にこそあるのだと思う。